THE FORMER NARA PRISON

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[建物]赤れんが建築

1 赤れんが建築の始まりと終わり

明治初期まで、監獄建築は木造、灯火はランプであったため受刑者による放火事故が多発していました。1883年(明治 16 年)に起きた広島監獄の放火では、未決囚を含む50名強の焼死者を出し、他の監獄放火事故においても、多くの焼死者や逃走者を出していました。防火性を高めることは、当時の監獄建築において急務だったと言えます。
明治20年代に入ると、日本でもれんがの大量生産が可能となり、都市部を中心に銀行や司法建築にもれんが造が多く取り入れられるようになりましたが、監獄費を負担している地方には予算がなく、老朽化した木造監獄を補修しながら使わざるをえませんでした。

しかし、1899年(明治32年)に監獄費の全額国庫支弁が決定すると、れんが造による監獄の改築が急速に進み、1907年(明治40年)には千葉監獄・長崎監獄・金沢監獄が、1908年(明治41年)に鹿児島監獄・奈良監獄が続けて竣工しました。

大正期に入ると少しずつコンクリート造の建造物が増えてきました。監獄内に設置された工場の機械化も進み、工場の土台は板敷ではなく、コンクリートで補強する必要が出てきました。
れんが造建築の時代が終わりを迎える契機となったのは、1923年(大正12年)に起きた関東大震災です。関東大震災では、多くのれんが造の建造物が倒壊し被害を受けたのに対し、鉄筋コンクリート造の建物が耐震性を示しました。

1928年(昭和3年)に定められた「刑務所建築準則」では鉄筋コンクリート構造の採用への転換が記されています。

2 イギリス積みのれんが造

れんが造の積み方は、イギリス積み、フランス積み、オランダ積みなどがありますが、奈良監獄では、小口積みと長手積みを交互に段を違えて積むイギリス積みが採用されました。施工が容易で強度も若干強いことや、山下啓次郎がイギリス人建築家のコンドル氏に師事していたことが理由として考えられます。
イギリス積みのれんが
イギリス積みのれんが

3 アーチ状の開口部

壁面をれんがで積み上げた建物は、壁自体が構造体となっており、出入り口や窓などの開口部を造ると、強度を弱めることになります。縦長の窓が多く、横幅の広い窓が少ないのは、そうした理由によります。また、開口部の上は楔型に焼いたれんがをアーチ状に積むことによって、上からの荷重を受けられる造りになっています。
アーチの形状には、半円アーチ、欠円アーチ、フラットアーチなどがあり、奈良監獄の中でもそれぞれ異なった形状のアーチ窓を見ることができます。

左:半円アーチ 
中央:欠円アーチ 
右:フラットアーチ

4 受刑者の手によって作られた赤れんが建築

奈良監獄の工事は民間業者への発注を行わず、刑務作業の一環として、受刑者がれんが職人とともに監獄内でれんがを製造し、作り上げました。建築に関わった受刑者の延べ人数は、1906年(明治39年)だけで15万人を超えており、このことからも大掛かりな事業であったことがうかがえます。また、受刑者の労働力を活用するという方針も、設計者である山下啓次郎の意向に沿ったものでした。
通路に敷き詰められたれんがに残る刻印
通路に敷き詰められたれんがに残る刻印

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