THE FORMER NARA PRISON

THE FORMER NARA PRISON

史料館

日本近代化の歩みを示す史料

旧奈良監獄史料館に保管されている公文書、刑務所固有の道具や受刑者の更生に向けた支援に関わるものの数々は、日本近代化の歩みを示す史料です。ここでしかみられない専門性を有しつつ誰にとっても何かを感じさせてくれる一見の価値があるものばかりです。ここでは、その一部を紹介します。

史料館

「藩政時代之刑罰」

江戸時代の刑罰としての入墨はどのようなものですか?
江戸時代における刑罰の種類とその執行の様子を一見して分かるように図にまとめたものです。第一号から第八号までの八種類の刑罰が順に示されています。第一号から第三号は「身体刑」に区分されるもので、仕置きとしての身体への苦痛を課しています。その中で、第三号は「敲(たたき)」としての鞭打ちの刑ですが、右隅に医師が配置され一定の配慮がなされていることがわかります。第四号も刑罰の分類としては身体刑としての意味も持つ「入墨」です。入墨を腕にいれると共に、どこで処罰されたか分かるように記号化しています。第五号から第八号までは生命刑/死刑の執行状況です。それぞれの罪状等によりその執行方法が異なっていることが分かります。時代劇で奉行が「市中引き回しの上獄門」と宣告される場面がありますが、第六号がそれにあたります。馬に乗せて多くの護衛的な人を配置した上で所定のルートをとって刑場に引き立てます。一般市民が死刑の執行等を垣間見れるということは、「悪事をなしたら獄門/磔」といったある種の恐怖心を植え付け犯罪を抑止するという一般予防の効果はかなり高かったのではないでしょうか。現在の施設に収容し、作業等を行う「徒刑」という刑罰もありましたが、この時代では一般的ではなく、記載されているような身体刑や生命刑が主流であったともいえます。
処罰を受けた場所や、処分の内容が分かるような記号化されたものです。

『監獄則』『監獄則並図式』(複製)

「監獄則並図式」とはどのようなものですか?
わが国の近代刑罰が国家として統一された執行がなされるための、その最初の法令が、1872(明治5年)に制定された「監獄則」です。起案者は小原重哉(おはらしげや/しげちか)現在の岡山県出身です。幕末にはいわゆる勤王の志士として活動し、新撰組組員殺害の容疑で牢屋に収監された体験を持ち、また、日本画の才能もあり「米華」という画号での作品も残している、ユニークな人物です。明治初頭に香港等の英国植民地における獄制を視察し、その知見等を生かしてとりまとめたのが「監獄則」と「監獄則並図式」です。監獄則の冒頭の緒言には有名な「獄トハ何ソ罪人ヲ禁鎖シテ此ヲ懲戒セシムル所似ナリ 獄ハ人ヲ仁愛スル所以ニシテ人ヲ残虐スル者ニ非ス 人ヲ懲戒スル所以ニシテ人ヲ痛苦スル者ニ非ス」という人道主義的な獄制理論を明示しています。また、「監獄則並図式」には様々な監獄における建物や備品等の図式が示されていますが、実際の運用等は国費負担が著しくなることから実施されないまま、それぞれの府県に1900(明治33)年までは委ねられていました。
監獄の基準などを絵図にしたものです。

「石川島監獄署景况略図」(パネル/矯正図書館所蔵資料複写)

現物は矯正図書館に所蔵されている。

江戸時代の石川島人足寄場は維新後どのようになりましたか?
江戸幕府直轄の石川島人足寄場は明治期に入り、警視庁の所管として石川島懲役場そして石川島監獄署等と名称を変更し、1895(明治28)年10月にその業務は新たに開設された巣鴨監獄(正確には警視庁監獄巣鴨支署)へ引き継がれることとなります。「景況略図」とされるこの絵には、監獄内での様々な作業がそれぞれの工場で実施されていることが示されています。作業に従事する囚人は、柿色の囚人服を着用し、その脇には短剣を下げた看守が黒制服を着て立会しています。石川島懲役場での囚人作業の様子は、監獄則の起案者である小原重哉(米華)の筆とされる「囚人作業絵図」という三巻の巻物が公益財団法人矯正協会の図書館で保存されています。藁細工や建具工作などのたくさんの作業の中に煉瓦工作に関しても既にこの巻物には記されています。この略図の左上の煙を上げる二つの煙突の下は煉瓦竈焚の場ではないでしょうか。出所後の生活を継続していくための様々な授産事業ともいえる職業訓練的な作業が実施されている様子もこの略図からも伺うことができます。
職業訓練的な作業を実施する更生支援に力をおいた監獄としてその理念は引き継がれました。

監獄製の煉瓦

なぜ、監獄で赤煉瓦を製造することになったのでしょうか?
明治期の近代建築はそれまでの木造工法から煉瓦工法への転換といえます。ここで示されている図は、東京集治監における煉瓦造りの様子を描いたものです。東京集治監は1878(明治11)年小菅監獄署として開設され、翌年、内務省直轄の東京「集治監」として西南戦争等による政治犯等を収監する施設としても運営されました。用地買収にあたっては、既にそこで三つの煉瓦製造用の窯が設置されていたこともあり、開設当初から、煉瓦製造を囚人によって担わせることが想定されていました。理由としては、今後の西洋式建築の増加を見越して安定した、また、製品として良質な赤煉瓦を大量生産することが必要とされていたからといわれています。作業の図は、煉瓦用の粘土の型抜き、型抜かれたものを乾燥させ、それを窯まで運搬し、焼き上ったレンガを窯から取り出す、という一連の作業が描かれています。三つ目の図面の上段は「ホフマン式輪層窯」とされています。作業工程は焼窯の整備等により、硬質な煉瓦が大量に囚人によって製造され、官公庁をはじめ様々な建造物に使用されていたとようです。煉瓦には桜の刻印などにより、監獄製造であることがわかるようにもしていました。
それまでになかった技術を用いて多量で良質かつ安定した製品を製造するのに、安価な労働力が提供できる監獄が適任の場所だったからと言われています。

鉄の鎖と鉄の球

囚人が鉄の球をもった図面がありますが、何をさせているのでしょうか?
1872(明治5)年の監獄則の戒護遇囚の項においては「釱(たい)」という文字が認められます。「釱」とは鉄製の足枷を意味しており、五段階に分けられていた囚人が作業の際に着装する戒具(拘束具)の、第三等役限の立場の者は両釱(両足)が第二等役限の立場の者は片釱(片足)を装着することとされています。また、戒護が一番低い外役者(構外作業に従事する)には長鎖を二人でつなぐとされています。その着装の様子は「監獄則並図式」にも描かれています。他方、1908(明治41)年の監獄法が施行されるまでは、各施設独自に懲罰の手段として鉄鎖や鉄球、手錠等を利用してもいるところです。写真左下の図は、1881(明治14)年の監獄則の改正に伴い、無期徒刑囚人が逃走や居室等を破壊し、又は暴行等をなした時に使用する「罰具」(改正監獄則第109条)を図式したものです。とすると、左の鉄鎖は、一般囚人が着用した戒具の一つとである釱で、右の鉄球は罰具として用いられた「鉄丸」みることもできます。(挿絵引用:『法規分類大全治罪門』)
 罰具としての「鉄丸」は監獄則(明治5年)第8条第3則で「両手ヲ伸ヘ重サ二貫五百目乃至三貫目ノ鉄丸或ハ他物ヲ其掌上ニ置キ洋時十二字間長サ五、六十間ノ地ヲ往来セシム」と規定されているとおり、鉄丸を持って12時間約100メートルの間をただ行き来させるという罰です。ちなみに「十二字」と表記されているのは、明治初頭の時間はそれまでの2時間を「一刻・一時(いっとき)」とする旧時間帯との間違えを無くす意味から、1日24時間とする「洋時」と、その時刻を「時」ではなく「字」と表記することがしばらく行われていたようです。
逃走や暴行など大きな違反をした囚人に対しての懲罰として持たせていました。

奈良監獄の建物模型

奈良監獄の建築のために1日あたり何人の囚人が作業に従事したのでしょうか?
1900(明治33)年1月にそれまでの府県予算であった監獄費用がすべて国庫負担となったことを受け、全国の元府県監獄の改築計画が立案され、「年々国庫より四十萬円を建築費として支弁せしむる」ことが内務省と大蔵省の間での諒解を得ることができたことを受け、第一期工事として、鍛冶屋橋、千葉、長崎、鹿児島、石川、奈良の順に改築が開始されることになります。奈良監獄は8年後の1908(明治41)年7月20日落成を迎えます。当初の計画では、4、5年で全施設の竣工を予定していましたが、1904年開戦となった日露戦争の影響を受けて、奈良監獄が最後に竣工されることとなりました。記録によりますと、この第一期工事には毎年度約七十万人前後の囚人がその建設に従事されていたとされ、明治39年度に奈良監獄に建築に従事した囚人数は述べ154,000人以上であり、1日換算で約420人とすると、その工事の規模の大きさが推察されるところです。煉瓦造り2階建の構造は一部の増設はあるものの、当時の構造をほぼ維持している、わが国唯一の監獄史跡です。
わが国の監獄は、明治初頭においては、監獄則並図式に示されている十字型の居室棟構造を基本としていましたが、1883(明治16)年7月発生した広島監獄での火災が、各居室等が中央で連結している構造が延焼面積を拡大させたという教訓等により、各居室等を並列で配置する算木型、または十字改良型と呼ばれる、居室棟を十字ではなくT字型にする配置に変更されていきました。奈良監獄はT字型の3棟にさらに、その間に1棟を加えた十字型改良の5棟構造をして居室棟は配置されています。司法省が1932(昭和7)年時点での全国の刑務所の平面図をとりまとめた『刑務所要覧』を発刊しますが、建材が木造から煉瓦・コンクリートへ移行したこともあり、豊多摩、府中といった大刑務所では十字型が復活してきていますが、奈良と同様な構造は15庁もあり、主流な構造であったことを伺うことができます。
ちなみのこの模型は奈良少年刑務所として施設が廃庁となる当時の施設配置が分かるものとしても貴重なものと言えます。
400人以上の囚人が作業に従事していたようです。

この図面は何の図面だとおもいますか?
一体何に見えますか?標題に書いてあるとおり、「閂(かんぬき)」の図面です。保管されている史料の中にあったものですが、扉に設置された小扉を内側から開けられないように付けて閂のようです。閂を抜くと、小扉は上にはね上げられる構造のようです。白い部分が木材、黒い部分が鉄などの金属を示しており、右側の金属の留め部分を右側に回し、中央の木製の閂を右にスライドさせて取り外す、中央上部の取手を手間に引く、又は、下から上に跳ね上げることができるようです。閂の奥には縦に二つの隙間があるようにも見えますので、この隙間から中の様子を観察し、食事や物を閂を外していれる、といった用途に利用されていたのかもしれません。閂が下に落ちないように紐状のものが取り付けられていることもわかります。当たり前ですが、監獄の構造や備品は逃走や破壊が困難な仕様となっていることが必要ですので、一つずつこのような細かい仕様が決まっていたといえますし、その情報等は他に漏れては困るものですので、この図面は当時の機密資料の一つかもしれません。
どうも、扉に設置された小扉が簡単に開かないように閂をつけるための設計図のようです。

内務省内訓第712号

明治初期の監獄運営の目標の一つには何がありますか?
西郷隆盛の弟にあたる西郷従道内務大臣名の内務省訓令第712号の正本です。これも、保存されている史料の中にあったものです。内訓の標題はこの史料では明らかにされていませんが、「風俗習慣を異にする囚人処遇標準に関する内訓」とされているものです。宛先は青森県知事宛となっているとおり、監獄費用が国庫負担となる前年に発出されたものですので、全国の知事に同様に通達されているものが、青森監獄の史料の中に見出すことができました。わが国の監獄行政、とりわけ明治初頭の監獄運営は、いわゆる不平等条約改正に向けての監獄改良がその中心におかれ、監獄建築等も欧米に遜色のないものを建設が進められ、1985(明治28)年には外国人の受刑も想定した巣鴨監獄が落成されています。不平等条約は1899(明治32)年7月に改正条約が締結されることにより、その解消が図れられます。その改正に伴い、「外国人の内地雑居の自由を許し、且つ一度失ひたる法権及税権を回復した。」ことにより、風俗習慣を異にする欧米人を拘禁することについては、特に配慮の必要があるとして、内務大臣名でのその処遇の標準等を明らかにしたものが、この内訓です。国家の悲願の達成による、新たな課題対応が常に生じるのが監獄運営の歴史ともいえます。
江戸幕府が締結した不平等条約の改正のための、近代的な刑罰執行の場としての監獄改良がありました。