THE FORMER NARA PRISON

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[建物]建築家紹介

1 監獄の近代化に尽力した山下啓次郎

山下啓次郎

旧奈良監獄を含む、明治五大監獄を設計したのが司法技師であった山下啓次郎です。

1868年(慶応3年)に現在の鹿児島市に生まれた山下は、帝国大学造家学科(現在の東京大学工学部建築学科)を卒業後、警視庁に入り、巣鴨監獄建設に携わることになります。
巣鴨監獄建設は、当時の行政施設の見本を作るような作業であり、その後日本各地で次々と建設された監獄の配置計画、建築計画に大きな影響を残しました。

巣鴨監獄を担当した警視庁技師の山下は1897年(明治30年)5月、司法技師に転じ、司法省営繕の業務に携わることになります。
山下は、旧奈良監獄の着工前に欧米約8カ国を歴訪し、 約30の監獄建築を視察しました。その知見を活かし、帰国後に明治五大監獄をはじめ、数多くの裁判所、監獄の建設に関与したことで知られています。

特に五大監獄のうちの千葉、奈良、 鹿児島については自身が設計を担当したと推測されており、旧奈良監獄については、本人の履歴控えに、1899 年(明治32年)の時点で「奈良県知事ノ嘱託ニ依リ同県監獄設計ヲ立ツ」とあり、視察以前の段階で旧奈良監獄の建設に関与していたことがうかがえます。

明治五大監獄設計から退官する昭和3年まで司法省営繕課長の職につき、司法省建築全般に指導力を示しました。

2 山下洋輔氏インタビュー「祖父・山下啓次郎の残したもの」

祖父・啓次郎が明治時代の建築家であった、しかし作ったものは全て監獄であると知り、なぜ監獄ばかり設計することになったのか知りたいという気持ちが湧きました。
何年もかけて祖父の足取りを調査し、一冊の本にまとめたものが『ドバラダ門』です。
その時にわかったことですが、啓次郎の父親・山下龍右衛門房親(りゅうえもんふさちか)は薩摩藩出身で、西郷隆盛と戊辰戦争を共に戦い、その後、明治政府でポリス制度の立ち上げに携わりました。父親がポリス、息子が建築家。祖父が監獄建築家となった経緯は、そのようにして決まったのだろうと推察しています。

帝大で建築学を学んだ啓次郎は、当時、留学生の順番待ちの後ろの方にいましたが、奈良県の嘱託として、すぐに海外へ派遣されることとなります。これは最近分かったことですが、当時の奈良県知事は、寺原長輝という薩摩出身の方でした。同じく薩摩に所縁のある啓次郎が抜擢され、海外8ヶ国30箇所へと建築物の調査に向かい、帰国後すぐに監獄の設計を始めました。

祖父が日本に作った監獄は、どれも全部、外見はお城です。そして、門の両側に建つ塔は、地域ごとに違う形をしているんです。
これが非常に面白くて、どこか創造的で、どこか楽しんでいる、自分の表現をそこに抱き込んでしまおうという芸術家的な意図がうかがえます。
鹿児島には石の文化がありますので、鹿児島監獄は石造りで、門の両側には「バトルメント」という塔を建てました。長崎監獄はどこか中華風なんです。そして金沢監獄・千葉監獄、それぞれ何かのヒントによって造形を変えています。
奈良監獄は、両側の塔の上が玉ねぎのようで、アラブ的な印象ですね。

日本中が、文明国になるんだという熱意でみなぎっていた時代に、その足掛かりとなる役割を担った啓次郎が、ちょっと好き放題面白いことをやったという部分が奈良刑務所は強く、その結果、地元の人に愛される建造物となり、役割を終えたこれからも、保存活用するという決定に繋がったのだと思います。

奈良は日本の伝統文化が多く残っているところですが、これも一つの日本の文化だと赤れんがの旧奈良監獄を見せたら、世界中の人たちに驚いてもらえるのではないでしょうか。

山下洋輔(ジャズピアニスト・執筆家)

ジャズピアニストとして活躍するかたわら、エッセイや小説も数多く執筆している。自身のルーツと刑務所建築を調査し、執筆した自伝的小説『ドバラダ門』を1990年に出版。(ドバラダ門は、鹿児島刑務所の石門を指す。)
山下洋輔氏
撮影: Jimmy & Dena Katz

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